2026年・午年に読みたい世界の馬文化。馬は文明を動かす存在だった!

2026年・午年に読みたい世界の馬文化。馬は文明を動かす存在だった!

馬はなぜ文明を動かしたのか?

午年の「午=馬」は、太陽が最も高く昇る「正午」の語源。正午を境に分けられた「午前」と「午後」は、僕たちも普段何気なくつかっている言葉だ。

「午」は、日々の時間を示すだけでなく、干支においても中間地点で訪れる“転換と躍動の年”!
古くから“動き・加速・転換”の象徴として考えられてきた。実際、馬は「移動」「通信」「戦争」「交易」と、あらゆる面で文明を動かしてきた人類のパートナーだ。

これらが世界の文明とどのように関わってきたのか、干支を起点に詳しく紐解いていこう。

はじめに「丙午」と「動く文明」の話をしよう

2026年は午年(うまどし)。その中でも丙午(ひのえうま)という、60年に一度の大きな節目の年だ。

丙午については別の記事でしっかり紹介したいと思うけれど、ざっくり言うと十二支の「午(うま)」は、五行思想で火に近い“熱量の高い”干支。そこに十干の「丙(ひのえ)」も火の性質を持って重なることから、丙午 = 火 × 火 = 60年に一度の”炎の年”とイメージされてきた。

干支は十二支と十干の組み合わせ

日本では、その強すぎるイメージが「迷信」になって暴走する。

「丙午(ひのえうま)年の生まれの女性は、気性が激しく夫の命を縮める」という話が広まり、前回の「丙午」である1966年には出生数が約136万人と、前後の年より約50万人も減少したのだ。

以下のグラフを見てわかる通り、ガクッと大きな谷間ができた。

厚生労働省のHP:出生数、合計特殊出生率の推移を参考に作成

さらに時代を遡ると、 関東大震災で戸籍が焼失した際には「丙午を避けるために“生まれ年”をずらして届ける」ケースもあったと言われているくらい、恐れられていた。

ただ、この「丙午=不吉」はあくまで日本ローカルの迷信で、世界的にはまったく通用しない価値観。むしろ面白いのは、人口が少ないはずの1966年生まれの女性たちが、各分野で活躍していることだ。

<活躍している丙午生まれの女性たち>
 ・女優の小泉今日子さん
 ・女優の鈴木保奈美さん
 ・マラソン選手の有森裕子さん
 ・僕らのドライブを盛り上げてくれる歌手の広瀬香美さん
 ・そして僕(きじー)と同じ誕生日の斉藤由貴さん

こうやって並べてみると、たしかに炎のように熱量の高い人もいるけど、しっとり系の人もいるよね。

だからこそ「丙午=女性不吉」は、完全に迷信と言える。ただし、”火の勢いが強い年=躍動する年” というイメージ自体は、案外、世界共通の感覚かもしれない。

ここで、十二支の中の「午(うま)」についてもう一度眺めてみたい。

<十二支における午(馬)の特徴>
 ・農耕動物が多い十二支の中で、馬だけは移動・通信・戦争・交易で文明を動かしてきた存在
 ・7番目の動物 = 折り返し地点であり「正午(しょうご)」の語源でもある
 ・正午 = 太陽がいちばん高く昇る「ピークの象徴」

つまり、午は「世界がいちばん動く瞬間」「勢いが頂点に達するタイミング」のシンボルでもある。ここで、ふとyanakiji旅を振り返ってみると、僕らがこれまで訪れた国って”馬が文明を変えた国”ばかりなんだよね。

そこでこの記事では、2025年に旅した「モンゴル・エジプト・オーストラリア」における馬文化を中心に、ポッドキャスト本編では語りきれなかった「アメリカ・スペイン・中国・南部アフリカ・韓国・マダガスカル」をまじえて、午年にこそ読みたい「馬が動かした文明」の話としてまとめてみたい。

【モンゴル】馬が「速度」を生み出し、帝国を動かした

まずはモンゴルから見ていこう。モンゴル帝国は、ジャム(ヤム)制度と馬の高速移動により、世界で初めて“速度が権力を決める”文明を成立させたんだ。

馬が帝国の命運を握る

馬といえばモンゴルだよね。そして、モンゴルといえばどこまでも広がる草原。 

実際にこの国を訪れて分かったのは、「あ、ここは本当に”馬のための大地”なんだな」という感覚だった。風が抜ける地平線、低い草、見通しの良さ…。ここに馬がいなかったら、そのほうが不自然だとすら感じるほどだった。

モンゴル🇲🇳ツァンガースワルガ付近のオフロード『どこまでも続く草原』
モンゴル🇲🇳ゴビ砂漠の下の草原にいた馬

そんな壮大な大地から生まれたのがモンゴル帝国だ。草原を統一したのはもちろんあの人!チンギス・ハーン。彼が最初に行ったのは、実は領土を広げることではなく移動と通信を最適化することだった。

「帝国の発展は、情報伝達の速さで決まる」

この考え方に基づいて導入されたのが、ジャム制度(ヤム制度)というシステムだ。

ジャム(ヤム)制度は、世界初の高速通信網

ジャム(ヤム)制度の説明

ジャム制度の仕組みを書き出してみるとこんな感じ。
 ・一定距離ごとに「駅(ヤム)」を設置
 ・駅ごとに馬と人を待機させる
 ・伝令は馬を乗り継ぎながら走り続ける

この制度によって、1日に数百km移動できる”生身のインターネット網”が完成した。仕組み自体はいたってシンプルだけど、物理的な情報の速さが勝敗を握る当時においては画期的な仕組みだった。
つまり、世界中のどこよりも早く「速度そのものが権力になる」 という原理を完成させた場所がモンゴル帝国だったのだ。

結果として、モンゴル帝国は世界人口の約半分を支配下に置いたと言われる。もちろん他にも要因はたくさんあるけれど、 その「土台の脚」となったのは馬に違いない。

だからモンゴルを歩いていると「馬は動物というより、文明のエンジンだったんだな」ということを、身体で理解させられる。

モンゴルと午年は相性ピッタリ

モンゴルにおいてもうひとつ面白いのが干支との相性だ。

干支は中国発祥だけれど、 大陸続きということもあり、モンゴルも干支文化をガッツリと継承している。モンゴル語にも十二支があるし、年を表すのにも干支を使う。

そして、モンゴルの遊牧民にとって「午=馬」は特別な存在だった。遊牧文化において馬は、家族であり、武器であり、財産であり、移動手段であり、そして”運命”そのもの。

モンゴル🇲🇳ヨーリンアム渓谷付近『馬と雪景色に染まった風景』

午年という”動の年”を考えるとき、 モンゴルは「午」のエネルギーが地形レベルで可視化されている国だと、僕は思う。

【エジプト】馬が軍事の「ピーク」を押し上げた

続いてエジプトを取り上げよう。エジプトでは外来勢力のヒクソスが馬を持ち込み、3000年続いたエジプト文明の構造を一度ひっくり返した。その後の新王国時代に軍事のピークとなる。

外来勢力“ヒクソス”がもたらした衝撃

エジプトの新王国時代の建築物に描かれた馬のレリーフを思い出してほしい。

馬が引く戦車は、完全に「王権そのもの」の象徴として彫られている。

でも、実はもともとエジプトには馬はいなかった。馬を外部から持ち込んだのは、紀元前18世紀ごろにエジプトに侵入したアジア系の遊牧民・ヒクソスだった。

エジプト人の目から見たら、見たこともない動物が、ありえない速度で戦車を引っ張って迫ってくる。 「なにこれ?チートじゃない?」というレベルで恐かったはず。3000年以上つづいた文明の中で「外から来た勢力に文明の土台ごとひっくり返される」というのは、かなりレアな事件だった。

でも本当に面白いのはここから。エジプト人はその「速さ」を徹底的に学び、 逆にヒクソスを追い出し、新王国をつくり上げる。

ラムセス2世の戦車と“文明のピーク”

時代はそこから少し進み新王国時代の最盛期。アブ・シンベル神殿を建てたあの有名な王「ラムセス2世」の時代になると、 馬と戦車は “エジプト最強のアイコン” に育つ。

エジプト🇪🇬アブ・シンベル神殿のラムセス2世の像

アブ・シンベル神殿のラムセス2世のレリーフ、覚えているだろうか。

あれは、ただの王様の自慢話ではなくて「馬と戦車こそが、エジプト軍事のピークだった」という宣言にも見える。

干支と太陽神ラーの象徴が重なる理由

ここで干支の話に触れておきたい。
もちろん、 干支の「午(うま)」と太陽神ラーには、歴史的な関係はない。 文化圏も時代も違うし、日本の干支がエジプトに影響したわけでもない。

ただ、時代や場所が違うにも関わらず、象徴としての重なりがあまりにも美しいのだ。

 ・午 = 正午 = 太陽が真上にくるピーク
 ・ラー = 太陽の最高神
 ・馬 = 新王国エジプトの軍事的ピーク

個人的に、ラムセス2世の時代は エジプト文明の「輝きのピーク」だったと思っている。 そして、その頂点に立っていた象徴が”馬と太陽”。

午と馬と太陽神ラーの関係

全く違う文化圏なのに、「ピーク」という意味で 午(うま)とラーと馬がきれいに三角形を組み立てている。午年にエジプトのことを考えるとき、 そしてこの象徴の重なりに気づいたとき、ちょっと鳥肌が立ってこないだろうか?

【オーストラリア】馬が「距離」の概念を転換させた

オーストラリアでは、馬は“文明を作った道具”ではなく、“大地のスケールを人に翻訳する道具”として不可欠だった。

大地のスケールが人間に馬を使わせた

そして、3つ目がオーストラリア。モンゴルやエジプトとはまた違う意味で、”馬が文明を動かした国”だ。

ケアンズからウルル、そしてパースへ。 地図上では「線」を引いているだけに見えるけれど、 実際に車で走ってみると、最初に出てくる感想はだいたいこれだと思う。

「これはもう、人間の”徒歩スケール”を完全に超えてるな」

オーストラリアでは、 動くという行為そのものが生きることと直結している。

馬は大地にアクセスするための絶対条件

そんな壮大な大地だから、入植者にとって馬は「便利な乗り物」ではなく、”大地にアクセスするための絶対条件”だった。馬がいたから人は内陸に入れたし、馬がいたから牧畜が成立し、馬がいたから「大陸規模の距離」がひとつの文明として繋がっていった。

オーストラリア🇦🇺ウルルを観ていると悩み事も全て小さく感じられる

ここでは「馬が文明を動かした」というより、「大地のスケールが人間に馬を使わせた」という方がしっくりくる。これこそが、午年の象徴のひとつ「転換」の意味と言える。

午年の象徴である3つの「動」

ここまで3つの国と「午(馬)」の関係を見てきた。ここで一旦まとめてみるが…モンゴル=速度、エジプト=ピーク、オーストラリア=距離 だったよね。

三つ並べると 午年のテーマである 《動》 が、立体的に見えてくるのではないだろうか。

 ・モンゴルは 速さの「動」
 ・エジプトは ピークの「動」
 ・オーストラリアは 距離の「動」

【マダガスカル】馬の不在が“別の文明”を生んだ国

世界の馬文化を見ていく前に、ここであえて逆張りの話をひとつ。

世界には「馬がいなかったことで文明が動かなかった国」もある。 その代表が、僕らも旅した「マダガスカル」だ。
マダガスカルは、アフリカのすぐ横にありながら、 文化的なルーツは東南アジア(ボルネオ島など)から来た航海民にある。つまり、文明の基本セットが「船・カヌー・海のルート」から始まっている。

結果として、シルクロード的な「馬ルート」から見事に外れてしまった。しかし、この島で馬のポジションを丸ごと引き受けた存在がいる。「ゼブー牛」だ。

マダガスカル🇲🇬ゼブー牛の大群

ゼブーが移動手段であり、儀式の主役であり、生活のリズムを決めた。「マダガスカルにおける馬=ゼブー牛」と言ってしまってもいいくらい、役割が重なっているのだ。

マダガスカル🇲🇬ゼブー牛の日常

ただ、馬が不在なだけで文明のスピード感も活動範囲も、社会の空気もぜんぜん違う。
マダガスカルがのんびりしていて「時間がふわっとしている」のは、もしかしたら “馬がいない世界線の地球” を覗いているからなのかもしれない。

世界10カ国の馬文化を比較

馬が文明を書き換えた地域は世界規模で見ても驚くほど多い。比較すると“動く文明の構造”が見えてくるはず。ということで、ここからはスケールを広げ、世界のさまざまな国と地域で馬がどのように文明を動かしてきたか見ていきたい。

【アメリカ】馬が先住民の生活を一変させた大陸

アメリカ大陸の馬は、もともと氷期の終わりに絶滅していて長らく“馬のいない大陸”が続いていた。この状況が一変したのは15世紀後半から16世紀にかけて。

入植者であるヨーロッパ人たちが馬を連れてきたのだ。 やがて野生化した馬が大草原に広がり、それを先住民が取り入れたとき「文明の形」が一気に変わる。

 ・バイソン狩りの効率が飛躍的に向上
 ・移動キャンプの生活圏が拡大
 ・コマンチのような馬を使いこなした部族が「大陸の強国」として台頭

「馬が戻ってきたことで、別タイムラインの文明が一気に発生した」という意味で、アメリカの大平原は人類史でもかなりエグい実験場と言える。

僕が小さい頃は、西部劇の再放送をテレビでよくやってたから、アメリカといえばやっぱり“馬”というイメージが強い。ケビン・コスナーやクリント・イーストウッドのような名俳優が、馬を自在に操って駆ける姿はとにかく格好よくて憧れた。

出典:George Stevens, Shane (1953), Paramount Pictures 映画『シェーン』のラストシーン

映画『シェーン』のラストシーンは、馬が“移動手段以上の象徴”として使われた代表的な場面で、
主人公の背中を追う少年の視線と、遠ざかる馬の足取りが、アメリカ西部開拓時代の終焉を象徴している。
この“馬の背中が語るドラマ”こそ、僕が午年に思い出す『馬』の原風景だ。

『シェーン カムバック!』あまりに影響を受けて、中学生のころには撮影地であるグランド・ティトン(Grand Teton)まで行って乗馬しに行ったほどだ。

【中国】軍馬の質が国の命運を左右した

干支の本家でもある中国では、馬は単なる動物ではなく”戦略資源”として扱われた。
特に秦・漢代以降、馬は国家戦略の中核を担う。

 ・北方遊牧民との戦いには良馬が必須
 ・絹と馬を交換する「絹馬交易」が行われた
 ・軍馬の質と数が、そのまま国力に直結

つまり、「いい馬がいないと国が守れない」という考え方を、かなり早い段階で制度として組み込んでいたのだ。

あと三国志が好きなら「赤兎馬」の名を一度は聞いたことがあると思う。良い馬を手に入れるために国が傾くことさえあったと考えると、当時どれほど馬が重宝されていたかがわかるよね。

干支の“午年”にまつわる中国の話を読むと「干支って暦というより、”戦略カレンダー”だったんじゃない?」 という気配まで見えてくる。これ以上話すと長くなるので、また今度!

【スペイン】馬を“帝国の武器”として使った国

スペインのコンキスタドール(征服者)たちは、馬を「武器」として新大陸にもたらした。

馬を知らないアステカやインカの戦士たちにとって、鉄をまとった兵士と巨大な動物が一体となって突進してくる光景は、現実離れした“怪物”そのものだったはずだ。

ここでの馬は「文明を加速させる道具」ではなく、「恐怖と支配を生み出す装置」として機能した。スペイン側はその威圧感と機動力を権威の象徴として使い、征服を一気に進めていったのだ。

その結果、yanakiji が旅して魅了されたインカ帝国だけでなく、さらに5000年さかのぼるアンデス文明までもが短期間で崩れ去った。アンデス世界には馬の存在そのものが想定外で、高地の人々は騎兵という発想すら持っていなかった。馬がもたらした圧倒的な突撃力と心理的衝撃は、文字どおり文明の前提を揺さぶり、歴史を急激に塗り替えたと言っていい。

【ペルー・チリ・ボリビア】征服と抵抗の二面性が現れた国

前述したスペインでは、馬は”征服の象徴”として現れた。ここでは征服された側の視点からも見ておこう。僕らも旅した思い出の地・アンデスでは、馬は“征服の道具”であったと同時に、実は”抵抗の武器”にもなっていた。

16世紀、インカ帝国が繁栄していたこの地にスペインのコンキスタドール(征服者)が攻め込んできた。征服者たちは、馬を権力として使いインカ帝国を恐怖に陥れたのだ。

そして、インカは文字をもたない文明だったため、この征服によって後世の僕たちが知ることのできる情報が大きく失われてしまった。アンデス好きからすると馬も憎い!?となるかもしれないし、僕もそう思ったのだけど…

ペルー🇵🇪の秘境のレインボーマウンテン(標高5,036m)での乗馬

チリのマプチェ族は違った。彼らは逆に馬を自分たちの武器として取り込み、 スペイン軍に真っ向から立ち向かったのだ。馬のスピードを武器にして、 スペインすら跳ね返す”動く抵抗”をした。

馬の力は、権力者の道具にもなれば、反逆者の武器にもなる。午年の象徴である”転換点(うまれる変化)”が、ここにはっきり表れている。

【モロッコ】“馬”と“火”と“動き”が融合した祝祭文化

モロッコの馬文化は、”動きそのものが祝祭になる” という独自性を持っている。

ファンタジア(tbourida) はその象徴で、馬・火・叫びが一体化するエネルギーの儀式だ。ファンタジアでは、馬が全力で走り、騎手たちが声を上げ、最後に火薬が一斉に爆ぜる。

Wikipedia, モロッコ, タンタンのタンタン(ムセム)フェスティバルファンタジアを披露するサハラウィ族の男性たち

動く・叫ぶ・爆ぜる。モロッコはイスラム文化圏であり干支とは無縁だが、午年に込められた「火」と「動」のイメージに重ねてみると、モロッコの祝祭文化のダイナミックさがよく見えてくる。

実際に旅してみるとわかるのだけど、 モロッコという国は”動くことの熱”が国全体に染み込んでいて、午年の持つ“火”と“動”のエネルギーを、これほど体感できる国も珍しい。

僕たちも自分で運転しモロッコを周遊してみて実感したけれど、移動手段がいかに重要かは、現地を走るだけでも強く伝わってくる。砂漠の縁をつなぐ道路は、かつてキャラバンが進んだであろうルートと重なって見え、オアシスごとに生まれた街は今でも“拠点”としての性質を色濃く残している。馬やラクダを頼りに移動していた時代の文化が、現代の街づくりにまで息づいていると感じられた。

【南部アフリカ】地理が決めた“文明の境界線”

南部アフリカでは、馬が使える地域と使えない地域が明確に分かれ、 その境界線がそのまま “文明の境界” を描いてきた。

旅をするとすぐに分かる。

 ・動ける範囲=文化の範囲
 ・動物の病気(ナガナ)で馬が入れない
 ・結果として文明の分布が極端に変わる

南アフリカから旅を始めて北へ向かうと、地理が文明のルールを書き換えていく様子が手に取るように分かる。南アフリカの乾いた高原では、馬が活躍できる“動ける世界”が広がっているのだ。道もまっすぐで、空間のスケールが人をも押し広げるような感覚。それがジンバブエにも続いている。

ところがザンビアへ入ると、空気の密度ががらりと変わる。川と湿地が文化のリズムを決める土地で、「動ける範囲」がいきなり狭くなる。馬がナガナ(ツェツェバエの病気)で生きられない環境は、人の移動そのものを制限し、まるで文明を滞らせるかのように“粘度”が上がったように感じられる。

続くボツワナは、乾燥した地帯とオカバンゴ湿地という“動と制限”が混在していて、文明の分布が地形そのものに現れている国だった。

そしてナミビアに至ると、砂の海が文化の歩幅を決定づける。人が動ける道は極端に限られ、その制限は驚くほど正確に歴史や都市の位置を形づくってきた。ここでは「動けるor動けない」という条件が、文明の骨格としてあらわれているのだ。

南部アフリカでは、馬が生きられる地域と生きられない地域がくっきり分かれ、その境界がそのまま文化圏や王国の勢力分布に重なっていく。

ナミビア🇳🇦多くの人が命を落としたと言われるスケルトン・コースト

私たちyanakiji が旅で巡った順番は、実はその“文明の境界線のグラデーション”を、そのまま身体でたどったルートだったと気が付く。

文明は“動ける時”に広がり、“動けない時”に固まる。地図にただ一本「馬が生きられる線」を引くだけで、私たちが訪れた国々の歴史の輪郭が見えてくるのが、南部アフリカの面白さだと思った。

このように午年を「動と制限」で読み解く時、 南部アフリカは欠かせない土地と言える。

【カナダ】馬が大陸の縮尺を変えた

カナダの草原地帯(プレーンズ)では、馬の登場が文化の “縮尺” そのものを変えた。

アメリカと同じく、馬が現れる前と後では先住民の生活は別物となった。

 ・バイソン狩りの行動距離が拡大
 ・季節ごとの移動範囲が広がった
 ・交易ルートが長距離化した
 ・部族間の関係が再構築された

カナダ🇨🇦ユーコン野生動物保護区のバイソン

つまり、文化の「縮尺」そのものが変わったのだ。午年の象徴でもある、「動けば世界の縮尺が変わる」という現象が、カナダでは自然の中に露骨に現れている。

【韓国】大陸の”動く文化”が流れ込む半島

朝鮮半島は、大陸の “動く文化” が通り抜ける場所。北方からの騎馬勢力が何度も押し寄せ、半島の歴史を何度も揺さぶってきた。

代表的なのは、高句麗の騎馬文化、新羅の戦士たち、唐・遼・金、そしてモンゴル(元)の侵入だ。

大陸と列島のちょうど境界にあるからこそ、 文化が絶えず移動し、混ざり合い、作り変わっていく。つまり、午=移動=交差という構造が、韓国では地理そのものに刻まれているのだ。

半島を見ると、「動く勢力」がどの方向から押し寄せたかが一目で分かる。ここでも、馬は単なる動物ではなく、「文化がどの方向に流れたか」を示すベクトルになっている。

世界が変わる瞬間は、いつも”動いた時”に起きる

こうして旅と文明の歴史を振り返るとさ、僕らがポッドキャストや旅で関わってきた国って、 やっぱりどこも “動くこと”が文明をつくった場所ばかりなんだよね。

簡単にまとめてみると、

 ・モンゴルでは、馬の「速さ」が帝国を生み、
 ・エジプトでは、馬と太陽の「ピーク」が文明を押し上げ、
 ・オーストラリアでは、「 距離そのもの」が人の生き方を決めていた。
 ・アメリカでは、馬が戻ってきたことで文明が「別のタイムライン」に跳び、
 ・中国では、馬の質そのものが国家戦略になった。
 ・マダガスカルでは、馬がいないからこそ「動かない文明」の姿が見えた。

ここでふと2025年を振り返ると、今年の僕は正直「動く」より「立ち止まる」ことのほうが多かったように思う。仕事のこと、会社のこと、未来のこと。 考えることが多くて、例年より慎重になっていた。

だからこそ、午年という”動”の象徴の年に、 世界で見てきた「さまざまな“動”の形」が、自分の中で一本の線につながったんだ。

さまざまな「動」の形

どれも「正しい動き方」だと思う。でも、どのパターンにも共通しているのは、世界が変わる瞬間って、いつも”動いた時”に起きるということ。だから今年は、「動かされる」のではなく「自分から動く」を実践したい。

午年は、火のエネルギーを持つ「ピーク」と「転換」の年。 世界が大きく動く年でもあるし、 自分から一歩踏み出すときに、いい追い風をくれる年でもある。

どんな「動」を選ぶかは人それぞれだけど、 このブログが、あなた自身の「動き方」を考えるきっかけになったら嬉しい。2026年、あなたはどんな「動」を起こしますか?

前の記事へ
キングスキャニオンからウルルへ!赤い大地を歩きつくした濃密すぎる1日

DAY11

2025.12.09
オーストラリア旅行記
キングスキャニオンからウルルへ!赤い大地を歩きつくした濃密すぎる1日
こちらの記事も人気です